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HUZINE
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これからファッションクリエイターを目指す人たちへ

「質問するな、意見を言うな。その前にやれ!」


先日、日本のファッションの現状について、演出家の若槻さんと、ヘアメイクアップ・アーティストの加茂さんに対談をしていただきました。その時、加茂さんが放った名言です。


加茂さんは2月にカール・ラガーフェルドのオファーで《シャネル》のオートクチュールを担当しました。その仕事は、モード、ファッションの世界で頂点を意味します。オリンピックで例えるなら、金メダルみたいなものです。3月8日現在も加茂さんは、カールさんのお仕事でパリにいます。そんなオリンピック期間中にも関わらず、HUGE5月号の原稿をチェックしていただきました。ありがとうございます。


加茂さんのこの名言をもう少しわかりやすく解説いたします。

ヘアメイクは仕事の発注が来たら、「今回のテーマって、こんな感じですか?」って質問しても意味がない。なぜなら、誰もそれを目にしていないので、答えることができないから。だから、質問する前に自分のクリエーションを見せるってことです。とにかくヘアは作ってみせないと誰も善し悪しを判断できないから、という明確な理由です。


もちろん、その結果「あ、それ、全然違う。やり直して」って言われることがあるかもしれません。「その時は、すぐにやり直せばいい」というのが加茂さんの見解です。そのやり直しが何度も続くようでしたら、その人は自ずと仕事がなくなる、それだけのことです。ただ、ずっと仕事が貰える人は、質問なんかしなくても、滅多にやり直しになることはなく、「あ、それです。OKです」となるのです。


失敗したくないから、何度も質問する。確かに道理ですが、その人は質問するたびに多くの「信頼」を失っていくだろう。加茂さんはそう言っていました。


もっと、最悪なのは、発注に対して自分の意見を言うことです。

「今回のテーマって、つまりこういうことだと思うんだよね」的な発言。加茂さんはそんな意見は不要、とっとと作ってみせて! と主張します。クリエイターは言葉じゃなくて、実物なんです、リアルなんです。


よって、会議やプレゼンはなるべくシンプルなほうがいい、という結論に加茂さんは至っています。

メイク・センスです。大賛成です。



クリエイターは職人であるべき、だと信じます。

プレゼン能力など不要です。

訴求力は、言葉ではなく、作品のみです。


失敗をあまりに恐れるがあまり、現代人は確認作業に追われています。

しかし、そこからは卓越したクリエイションなど生まれません。

ダメなら、すぐやり直す。そうした適応力もクリエイター、職人には必要です。

そこで反発したり、腐ったりしていては、失格なのです。


HUGE5月号ではそんな貴重な対談が掲載されています。

今、ファッション・クリエイターを目指す若い人たちに是非読んでいただきたい記事が凝縮されている、と確信しています。

3月24日発売です。


反論上等、待っています。


(右近 亨)


           
服がよく見えないのは、ファッション誌ではないのか?

 「ジャーナリズム、芸術性、エンターテイメント性を盛り込むと、服が良く見えない写真が増えてしまうのでしょうか?
そんな事はないと思います。
写真集やアート誌ではなく、ファッション誌なのでしたら、服がよく見えるという要素は、絶対に外してはならないと思います」

先日の僕のコラムを読んで、こんな質問が届きました。
返信を希望されていましたが、名前がなかったので、一般読者の声と判断してここに回答したいと思います。(うちのHPでは、まだすべてのコメントが公開できるようなシステムになっていないのです。コメントいただいた方、申し訳ございません)

ジャーナリズム、芸術性、エンターテイメト性を盛り込むことと、服がよく見えることは両立することもあるし、しないこともあるのではないでしょうか?
僕が言いたいのは、「両立しない写真がダメで、両立していなければファッション誌ではない」という考え方に反対なのです。

どっちだって、かっこよければいいのです。
プライオリティのトップは「かっこよさ」であり、ジャーナリズムでも、服がよく見えることでもないのです。

また、ファッション誌だから、服がよく見えなければならない、という考えが、ファッション誌を、強いてはファッションをつまらなくしている、と思います。

もちろん、服がよく見えるファッション誌だって、立派なファッション誌です。
それを否定するつもりはありません。

HUGEも服がよくみえるページはあります(決して多いとはいえませんが)。
クライアントから頂戴するタイアップページでは、商品がよく見える写真を選びます。残念ですが、かっこよければいい、が通用しないこともあります。なるべく、かっこいいページにしようと僕らは最大限の努力は、もちろんいたしますが。

しかし、「服がよくみえるという要素は、絶対に外してはならない」となると、引き換えに「かっこよさ」を犠牲にすることも、たくさん出てきます。そんなとき、僕は「かっこよさ」を優先したいのです。そのために、写真がブレていたり、モノクロだったりしていてもよい、と考えるのです。
甘っちょろい小便臭い考えかもしれませんが、そう信じています。

ファッション誌がすべて『HUGE』のようになればいい、とは思いません。
「服がよく見えるファッション誌」も否定しません。
ただ、ファッション誌のすべてが、服がよく見え、かっこよさを追究したファッション誌が一誌もなくなるのを、僕は憂いているのです。

ご理解いただけましたでしょうか?

ふざけんな! 『HUGE』のどこがかっこいいのか?
マスターベーションにすぎないだけだ!
と言う方は、コメントください。

そんな雑誌は売れない、つぶれて、消えてなくなるだけだ!
と言う方には、反論いたしません。
僕らのテーマはそこと闘うことなのですから。



(右近 亨)
           
HUGE 2/24 ReBORN
   「なぜ『HUGE』はブレている写真やモノクロの写真など、洋服がよく見えない写真を載せているんですか?」

昨年、僕の母校で「OB講義」が開かれ、その講師として柄にもなく教壇に立つことになりました。テーマは「テレビと雑誌の制作最前線」。実娘にパワーポイントを手伝ってもらい、なんとか90分の授業を終え、最後に学生からの質問を受付けたところ、こう尋ねられました。

核心を突いた良い質問に、思わず僕は「ここからもう一度90分の講義を始めたい」と思いました。


ファッション雑誌はいつからカタログ雑誌になったのでしょうか?

僕が雑誌の編集を志した1980年初頭、カタログ雑誌という言葉はすでにありました。僕が毎号購読していた雑誌もそう呼ばれていた。そこには「洋服や雑貨を売るための道具=カタログ」という揶揄が込められていました。「雑誌がもつべ

きジャーナリズムや芸術性、エンターテインメント性を放棄し、ただ消費の動機付けにすぎない」とか「カルチャーはなく、購買のためのチラシ」とかの批判がぶつけられていました。

でも、読者である僕はそうは思わなかった。カタログ雑誌とよばれていたファッション誌の中にも、ジャーナリズムは感じられたし、アートも娯楽も十分楽しめたからです。日本で買うことができないスニーカーが掲載されていてもまるで疑問に感じなかったし、輸入盤しかないアーティストのインタビューもワクワクしながら読めたからです。

しかし、実際に自分がファッション誌で仕事するようになり、以前大人たちが批判していた意味がなんとなく判るようになりました。編集者が本当に自分たちの愛するものを集めているだけはではないこと。政治や経済によってページが作られていること。それらを現実として痛いほど感じたからです。

しかし、それ以上にもっと大きな原因がある、と僕は思いました。
それは、いつしか読者もファッション誌ではなく、カタログを求めるようになったからです。もっと誰が見てもわかりやすいカタログを。

「より多くの商品を」「より買い易い商品を」「よりわかりやすい商品を」
1ページに何十点もの商品が掲載され、高価なものや日本で売られていないものは敬遠され、モデルには外人が禁じられ、身近に感じられるハーフが選ばれ…。
こうしていつしか、ファッション誌は自らの手で自らの首を締めていった。より多くの読者を獲得するために、それにより多くの広告を集めるために、クリエイティビティを犠牲にすることにためらわなくなったのです。
ファッション誌は、読者にとってどれだけ優れたバイヤーズガイドであるか?
それによって部数が増え、広告が集まり、勝ち組として生き残っていきました。

そして、かっこイイ人はどんどん減ってゆき、
ファッション自体が少しずつ勢いがなくなってゆきました。


ファッション雑誌とは、何でしょうか?
そもそも、ファッションとは、何でしょうか?


僕は90年代の中頃に、この命題を重く受け止め、ふたりのスタイリストと3人で新たなファッション雑誌を作ろうと計画し、動いたことがありました。しかし、僕らには経済力もなく、大人を納得させられるプレゼン能力もなく、その上貧乏暇なしで時間もなく、結果、志は折れました。

その志とは「日本で一番かっこイイファッション誌を作ろう」というものでした。
服を売るための雑誌ではなく、ファッションを表現する雑誌。
企業が喜ぶ雑誌ではなく、フォトグラファーやスタイリストや
アートディレクターが喜ぶ雑誌。
さらには、ファッション好きな男をもっともっと増やすために、
日本の男たちをもっともっとお洒落にするために、俺たちの創る雑誌で啓蒙しよう、
そんな大それたことまで考えていました。


今、『HUGE』の中核を担っていただいている野口強さんは、そのひとりです。


かっこイイというのは、あまりにも稚拙で曖昧な基準です。
何をもってかっこイイとするのか? 
その答えは自分たちにある。自分たちがかっこイイと思うものが正解。
自分たちが共に仕事をするクリエイターがかっこイイと思うものをやろう。


だから、写真はブレていてもいいのです。
モノクロでもいいのです。
ピンが来ていても、カラーでもいいのです。
かっこよければ、それでOK。

かっこイイに、国境はありません。世界共通です。
かっこイイに、理屈は要りません。問答無用です。
そのため、かっこイイは時に脆弱で、難解で、冷酷で、傲慢で、孤独です。
ひょっとしたら、これからの時代には適さない哲学かもしれません。

しかし、僕らは、かっこイイという最高の美徳をめざした
ファッション雑誌を作っていきたいという野心に溢れています。

そして、新しい雑誌がもうすぐ誕生します。
リニューアルした『HUGE』です。
これまでの『HUGE』よりも、もっとかっこイイ!

100%ピュアな、蒸留水みたいなファッション雑誌ではないかも知れません。
でも、かっこイイファッション雑誌という目標のもと、
ただその一点を見つめて、可能な限り真っ直ぐに、出来る限り全力で創ったファッション雑誌です。


2月24日、その姿を現します。



























(右近 亨)
           
昭和最後のトリックスター、逝く
 「婆ぁを轢くんじゃねーぞ。“痛い”って言うから」

私がたった一年間だけ弟子をさせていただいた立川談志師匠に、車の運転中よくこう言って注意されました。

立川談志。
毒舌、破天荒、名人…
ファンも多いがアンチも多い。

しかし、弟子としてわずかな期間ご一緒させていただき、判ったことは、
彼が天下一の“偽悪”者であるということ。
そして“偽悪”は、“江戸っ子の知性”であり、ときには“ダンディズム”であるということ。

「落語は人間の“業”の肯定である」という哲学のもとに演じられる噺は、
アカデミー賞でいうところの、監督賞、脚本賞、主演男優賞、さらに主演女優賞を一人で総なめしちゃうくらいの芸でした。

どうしようもなくダメな人間にも、生きる喜びがある。ってことをみんなに教えてやるのが、落語家の勤め。
そう信じていたように談志師匠は演じていたと、私は勝手に思っています。
談志師匠の演じる「らくだ」「黄金餅」「居残り(佐平次)」はまさにその真骨頂。

さらには、落語評論に関しても超一流で、東大の教授さえも談志師匠の評論に舌を巻いていたほどでした。

ちなみに落語コレクターとしても屈指だったと思います。師匠の広い書斎は、落語ファンなら
何日でも棲んでいたくなるくらいの書物、画像、映像、音響が所蔵されていました。
心底、落語を愛していたんですね。


談志師匠は連発する毒舌の中に、
いくつかの真理を教えてくれました。

「人は言い間違いのなかに本心がある」
「天才の条件は早熟であり、多作であること。つまり、ピカソと手塚治虫だ」
「きれいな真珠なら、人は息を止め潜っても取りに来る」
「夫婦の本懐は添い遂げること」

悪態をつき、人を困らせ、不道徳なふるまいの数々(ここでは書けない悪行もたくさん目撃しました)。
それでいて、国や社会や人間を語ることで、
また人からも好かれる。

まさに昭和最後のトリックスター。

自ら好んだ回文「談志が死んだ」。
そんなネタが現実となりました。

立川談志師匠、安らかにお眠りください。


『HUGE』12月22日発売の2月号(No.89)の特集は
「トリックスター」
立川談志師匠は登場しませんが、
実に人間臭く、才能豊かで、人を引きつけて止まない男たちが登場します。
ご期待下さい。
(右近 亨)
           
70sのダンシングヒーロー
 「真っ赤なドレスで、踊り続けよう。Dancing All Night」

矢沢永吉率いるCAROLの親衛隊だったCOOLS。その2TOPが岩城滉一と舘ひろし。
しかし、二人ともCOOLSを抜けて、舘ひろしがソロデビューした曲『朝まで踊ろう』のフレーズです。

当時高校三年だった僕は、毎日この曲をカセットで聞きながら、学校も行かず煙草ばかりふかしていました(ⓒあがた森魚)

その頃、『サタデー ナイトフィーバー』の公開とともに、日本国中でいきなりディスコブームになりました。1977年のことです。

もちろん、それまでにも六本木や横浜、横須賀などGIなどがたむろしていた地域では、ディスコっぽい飲み屋があり、そこでDJが曲をかけて、客が踊るという店もありました。
一方その頃、新宿では60sの「GoGo喫茶」が転じて、ディスコっぽい感じの店も出現していました。

テレビでは『SOUL TRAIN』が毎週土曜日深夜12時から放映され、ジェフリー・ダニエルのステップに、日本国中の馬鹿な不良たちが魅了されていました。

当時のドーナッツ盤の裏面(雑誌で言うところの表4)には、ご丁寧にステップの教則まで載っていました。僕ら都会に憧れる田舎者は、その教則を見ながら「ラテンハッスル」や「マンハッタンバスストップ」なるステップを覚えたものです。

そんな折、世界ディスコダンスコンテストで日本人が優勝する、というニュースが飛び込んできました。大阪のディスコでブィブィいわしていた、テディ団という人物です。


当時『11PM』という大人の情報番組(お色気あり)で、その時の映像が流され、法被を着ながら時折バック転を決めて踊るテディ団の姿は、北海道の田舎者には感動的的に伝わりました。

その後、彼が日本各地のディスコに営業をスタートし、もちろん北海道にも「来道」しました。
僕は「シャカマンダラ」という札幌のディスコに彼を見に行きました。

いや〜、かっこ良かった。
今のEXILE以上だったと思います。

それまで、IVYしか着てなかった僕は、思いっきり逆サイドだった《BIGI》とか《ニコル》といった(当時)「コンチ」と呼ばれたスタイルにサイドチェンジしました。

それから四半世紀を経て、大阪出身の某ロン毛スタイリストとテディ団さんの話になった時
「あ、それ自分の先輩です」って言われて、吃驚したのを覚えています。

4月24日発売の『HUGE』はダンス特集です。
70s、ディスコに明け暮れた僕が編集したので、ちょっとオールドスクールなテイストになっていますが、テディ団さんの話は入っていません。残念ながらネタが満載のため、ボツになりました。
しかしながら、興味深いダンスのネタが盛りだくさんです。
どうぞご期待ください。
(右近 亨)
           
ごめんなさい。悪いのは僕でした。
 「おまえらは負けて逃げるんじゃ。わしらを裏切って逃げ出して行くんじゃ」

『北の国から』で、純が雪絵おばさんと富良野を離れ、東京に向かおうとする待ち合いで、清吉おじさん役の大滝秀治が言った名台詞。
僕は、23歳でこの台詞を聞いて以来、今日まで一度も忘れたことがありません。


僕は北海道の襟裳岬の近くの漁村で生まれ、育ちました。
小学校4年生のとき、十勝沖地震を体験しました。
震度5、津波は3m。
漁師の父は、定石通り沖に船を出し、僕と弟と母と祖母は山に非難しました。
津波で家はさらわれませんでしたが、3隻の船が沖に出るのが遅れ、流されました。
しばらくして、その様子がテレビで放送されたのを僕は鮮明に覚えています。
それは僕が初めて自分の村をテレビで見た日だからです。

当時、村では生活に必要なインフラは整備されていました。
しかし、実家は(近所の家もそうでしたが)水道の水を飲まず、200mくらい離れた
井戸から水を汲んで飲んでいました。
燃料は薪でした。
トイレは外にあり、ボットン便所でした。
毎朝の水汲み、夕方の薪割り、年に何度か肥だめを担ぐのは母と僕ら子供の仕事でした。
なぜ、水道も電気もガスも石油もあるのに、それを使わなかったのか?
もったいない、というのが母の、いやその村全体の共通認識でした。

僕は、そんな生活が大嫌いでした。
嫌で嫌でたまりませんでした。
長男だから、周りは僕が漁師を継ぎ村に残るのが当たり前だと思っていました。
そんな空気にも耐えられませんでした。
家を、漁師を、村を、憎んでいたくらいです。

(海と馬しかない、ほかはなんにもない村でした)

「一日も早くこの家を、この村を出よう。
どうせ、出るんなら、この村と思いっきりかけ離れた場所で、
まるっきり違う生活をしよう」

中学生になる頃から僕は、そう心に決めていました。

「どうせ生まれたからには、旨いもの喰って、高い服を着て、
豪華な家に住んで、いい女と暮らそう」

その結果、
東京に来て、マスコミで働き、ファッションに囲まれ、
何人かの女と暮らしました。

「内地は夏は暑いし、冬は寒い」と言って、24時間エアコンをつけていました、30年も。
テレビの深夜番組の仕事で得た金で、燃費の悪い外国製の旧車にも乗っていました、
20年も。
パチンコにハマった時期もあったし、3年前からは、なんと、オール電化のマンションに暮らしています。
この間の衆議員選挙では民主党に投票し、「時代は変わった」と浮かれました。


原発の恩恵を全身で浴びてここまで生きてきました。


ただ、良い暮らし、リッチな生活、洗練されたライフスタイル、
北海道の田舎とはかけ離れた、
清潔で、お洒落で、自然に左右されない、
安全で、自由で、気軽で、
そんなどん欲な人生を望んでいました

それで、今の自分があります。


原発がこうなったのは、僕のせいです。
僕のような人間がたくさんいたせいです。


福島のみなさん、ごめんなさい。
悪いのは僕でした。


原発の、福島の加害者です。


東電の共犯者です。


今さら少しばかり節電したって、贖罪にはなりません。
エアコンも使わず、テレビもパソコンも捨て、手で洗濯したって
東京はなんとかなるかもしれないけれど、
福島は元には戻りません。
福島の人だけ被災させておいて、東京の僕が無傷だなんて
道理が通らない気がします。


あれから40年経った今でも、実家の母は昔と同じ生活をしています。
井戸から水を汲み、薪を割っています。
さすがに、トイレは水洗になりました。
でも、近くに温泉が沸いたので、風呂は家で入りません。
日が暮れると寝るし、日の出とともに起きています。
ほとんど電気は使いません。
テレビは観ず、もちろん、携帯もパソコンもありません。
僕もそこにいれば良かったんです。
そうすれば、原発なんて要らなかったんです。


でも、今から帰る訳にはいきません。
僕は逃げてきた人間なんです。帰れません。


東京で暮らします。


確かに原発は心配です。節電も心がけています。
それでも、今までさんざん好きなように、エゴイスティックな暮らしをさせてもらったんですから、
たとえ避難勧告が出ても、できることなら東京に残りたい。
僕は東京で死ぬべきだと思うんです。
誰かの言うように、これはバチかもしれません。
(ま、もう歳も歳ですし、放射能で死ぬか、寿命なのか、判りませんし)

田舎も裏切って、そして今度は都会も裏切って、
もう、逃げ出したくはありません。

(右近 亨)

           
忘れられた60年代のフォトグラファー、マイケル・クーパー

「“アートがどうだこうだなんて忘れろ。金を稼ぐんだよ”とマイケルによく言ったよ」と、当時の写真仲間のデイヴィド・ベイリーとテリー・ドノヴァンは話した。

 

 これは1984年の『BRUTUS』9月1日号に掲載された青山南氏の記述。

 

 マイケルとは、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットを撮影したフォトグラファー、マイケル・クーパーである。つーことはすなわち、ストーンズの『サタニック・マジェスティーズ』のジャケも担当している。こちらはレコード会社によって写真が勝手にトリミングされ、マイケルはずっと抗議していたそうだが、受け入れられず彼の意思とは違うジャケットが世に出たのだが。

 

 マイケル・クーパー、愛機はニコン。今、残されている写真集は1冊のみ。1990年に発行された、世界5000部限定の『Blinds & Shutters』だ。ebayではほとんど見つからず、Abe Booksでは$2500の値がつけられている。日本では発売価格が12万円くらいだったはずだ。何故、そんな高いのか? 巻頭にセレブリティたちの手書きのサインがあるのが一因。1冊にランダムにセレクトされた10人ほどのサインがある。運が良ければミック・ジャガーやキース・リチャーズのサインに当たる。僕もこの写真集を欲しくて欲しくてたまらない時期があったけど、20万円という壁にいつも跳ね返されてきました。写真収集家の道をひたすら邁進しているロン毛のスタイリストなら、持っているかもしれない。今度、訊いてみよう。

 

 だから、今マイケル・クーパーの写真を目にするとしたら、レコードジャケットが最も身近だ。ビートルズとストーンズ。実際、ストーズのメンバーとはかなり親しかったらしく、頑張れば今でも、ブライアンやキースの写真を見ることができる。マイケルのスタジオ(チェルシーにあった)にはよく彼らが遊びに来たらしい。「そのため撮影がしばしば中断した」と青山氏は書いている。モデルがキャーキャー言って撮影にならなかったからだ。


左からブライアン、アニタ、そして二人の仲を横恋慕したキース。Photo by Michael Cooper

(左からブライアン、アニタ、そして二人の仲を横恋慕したキース。Photo_Michael Cooper

 

 ブライアンの彼女だったアニタ・パレンバーグとミックの2ショットもマイケルは撮影している。アニタという女優は悪女役でそのキャラクターを発揮したが、プライベートではもっとビッチで、ブライアン→キース→ミックと乗り換えた、というのが、当時のもっぱらの噂だ。それほどいい女だったとも言えるし、ヤリマンとも片付けられる。

 

 ちなみにマリアンヌ・フェイスフルをミックに紹介したのもマイケルだと言われている。オーストリアの名門貴族の娘であるお嬢様を、野獣のごときロックスターに紹介したのだから、「そのことが、いいことをしたのか、まずいことをしたのか、判断はできない」とマイケルは後に語ったのも無理はない。

 ツイッギーをモデルとしても撮っている。彼女が大ブレイクする以前の話だ。当時、マイケルがいかに最先端を突っ走っていたか、うなずけるショットだ。

 

 実は『時計仕掛けのオレンジ』の映画化も計画し、自ら脚本も書いた。主演にはミックを起用。しかし、土壇場でミックが出演を断ったためにこのプランは流れて、スタンリー・キューブリックの手に渡った。キューブリックは映画の完成後、マイケルに宛てて一通の手紙を書いた。「脚本は一字一句、アイディアのひとつひとつ、すべてあなたの書いたものと同じです」

 

 60年代のシンボルだったフォトグラファー、マイケル・クーパーは31歳で死んだ。1973年。60年代という時代の申し子は新たなディケイドには受け入れられなかったのだろうか。彼の作品が少ないのは、夭折のためだ。

 

 次号のHUGE60年代特集。

 

ビートルズもストーンズも、ベイリーもツイッギーも、マリアンヌもアニタも登場します。しかし、マイケル・クーパーは登場しません。本当は彼の特集を組みたかったのですが、もっともっと興味深い企画がたくさんあり過ぎたので、ボツにしました。残念なので、ここに拙筆ながら記載しました。ブログなので、もろもろ気になる点は大目に見てくださいね。ってことで、HUGEのブログは、HUGEに携わっているクリエーターの方々が、気軽に自分の言いたいこと、書きたいことが表現できる場所です。誌面では読めないガチな言葉を、お楽しみに!右近 亨